小田急線代々木八幡駅前の商店街にある
「とみざわ青果」は店主の体調不良でしばらく前からほとんど休業していたが、閉じられたシャッターに戦前のこの付近の手書きの地図が貼ってある(写真)。
「この地図についてお話をします。私(とみざわ)にどうぞ。この地図をほしい方は一声かけてくださいね」とあるがなかなかお目にかかることができず、それでも昨年末に一度だけ話を聞くことができた。地図は昭和13〜20年頃の代々木八幡駅から富ヶ谷交差点方面のものと、新富横丁の詳しいもの。通りの左右に○○ヤ、○○ヤ……と店が並び、高野辰之作詞の文部省唱歌「春の小川」のモデルといわれる河骨川〜宇田川も描かれている。
店主の富澤信義さんはこの近くの渋谷区立富谷小学校の13期生(昭和19年卒)で、同校が創立80周年(2010年)をむかえるにあたって、富澤さんも記憶をたどったそうである。代々木八幡駅は1927(昭和2)年に開業、場所は今と同じ。駅を降りると田中いり豆ヤからこうばしい香りがした、隣りは乗り合いバスの折り返し車庫、洋服仕立ての橋谷さんのウィンドウにはりっぱな洋服を着た人台があり奥には縫子さんがいて……と、一軒一軒の記憶がものすごく鮮明、しかも匂いや色や触った感じの表現が実にすばらしい。子どものころはあっちこっち遊び歩いていたからねぇ〜とおっしゃるのだけれど。
商店街の花屋さんの角を曲がって代々木公園に向かう小さな通りがあるが、「新富横丁」といってここもにぎやかだったそうである。富澤さんの生家はこの通りで八百屋を営んでいたそうで、記憶はさらに鮮明だ。おでんヤや佃煮ヤの匂い、共同井戸、印刷ヤの輪転機の音、正月の百人一首、水飴やのドンちゃんなどなど、隣近所の友だちからおじちゃんおばちゃんの名前もどんどん。つきあたりは「代々木の原」こと練兵場。勝手に住民が出入りできないように、現在の代々木深町小公園の手前あたりに土手を作ってカラタチが植えられ、鉄条網がはりめぐされていたそうである。当然子どもたちはこっそり出入りしていて、底抜け田んぼやねんど山、小魚のいる水たまりを見つけては、親指くらいの茶色の平家バッタやきれいな緑色の源氏バッタやトンボやトカゲと遊んだそうだ。
渋谷駅方面からこの一帯は1945(昭和20)年5月25日の空襲で全焼。しかし現在も、代替わり商売替えしながら続く店がいくつかある。
なお、秋尾沙戸子さんの『ワシントンハイツ GHQが東京に刻んだ戦後』(新潮社)の51ページに富澤さんのインタビューが出ていて〈代々木上原駅前で八百屋を営む〉とあるが「代々木八幡駅前」ですね。代々木八幡駅から商店街を富ヶ谷方面に歩くなら、左側を見てとみざわ青果店に張ってある手書きの地図をみつけよう。お店が開いていたならラッキー!当時の貴重なお話を聞くことができるのですよ。