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2012年 06月 14日
『鳥越神社氏子十八ヶ町睦会七十年の歩み』(昭和57年5月15日 大川幸太郎)
より乱暴抜粋、全文は国会図書館で。 昔の祭礼 東都歳時記に「浅草鳥越明神八日より賑へり別当長楽寺神主鏑木氏、古来は六月十一日なり、中古改めて九日とす、寛政八辰年迄は毎年、産子(うじこ)の町々より、だし、練りものを渡しけるが同じ年より中絶す。神輿は隔年産子の町々を渡す」とあり「早朝本社の前より南鳥越町」で始まり極めて詳細に渡御巡路を記し、「松浦家、井伊御家敷の間七曲り通り、甚内橋を渡り本社へ帰輿あり」宮出しより、宮入りまで、克明に記録されています。 睦会の誕生 明治26年の記録によりますと、宮元睦、各町睦、とあるので、町別の睦は古くからあった様です。明治の末に鳶職「頭(かしら)」の祭礼を中心とする組織、鳥越八ヶ町、宮元、向柳原、猿屋町、小島町、七軒町、永住町、阿部川町、栄久町が出来、それが基礎となって、阿部川町生れで、永住町の材木商、福山安太郎氏「当時二十五才」が氏子各町睦会や有力者と計り、氏子二十数ヶ町の睦会が合同し、十八ヶ町睦会が誕生したと言われています。 睦会のマーク 創立以来の睦会のマークは、片仮名のカの字八ツを獅子毛にして中に十の字を入れたもので、初代会長がなかなか、器用な方で自分でデザインしたという事です。そのものずばりで、いかにも睦会らしいマークです。傑作だと思います。 連合渡御 大正四年十一月に、大正天皇の御即位式があり、奉祝のために、二重橋まで連合渡御をやろうという意見が出たが、とても無理だという反対が出て、上野池の端一周という事になり、下谷神社及五条天神にそれぞれ渡りを付け、渡御が行われました。氏子各町共ほとんど総出で参加し、空前絶後の盛大さだったと聞いています。 十一月十五日に新堀端に集合して不忍の池を一周帰興。その前年に第一回の連合を行っているので、二回目の連合になります。此の連合が動機となって、氏子各十八ヶ町睦会の団結が一層強固になったと言われています。深川八幡の連合を参考にした様です。以後影祭りの年の行事になりました。 渡御巡路地図 睦会として巡路地図を作ったのは、大正五年に現睦会顧問松本亀松氏が赤坂日枝神社の山王祭りの渡御巡路地図を参考にして、製作したのが最初です。 お揃いと五日間の祭礼 睦会としてのお揃いが出来たのは大正六年頃で、それまでは各町まちまちでした。神社の大祭日は九日で、前後二日計五日間行われましたが、世間の景気が悪い年は三日間の事もありました。本社神輿は毎日帰興せず、其の日の最終町の御仮屋に駐興して翌朝、隣町に渡るわけです。 関東大震災 大正十二年九月一日の関東大震災で、江戸時代に出来た本社神輿は神輿庫と共に焼失、直後にバラック神輿といわれた間に合わせの神輿が出来て、昭和二年までかつがれました。 本社神輿新調 通称千貫神輿と言われる現在の本社大神輿は、昭和三年に阿部川町の神輿師の手で造られました。 木地師 牧野田志賀 金物師 竹野内正文 錺師 星野亀吉 木彫師 西村雅之 塗師 竹縄直吉 全員が毎朝必ず入浴し、心身を浄めて仕事に当っていたそうです。用材は檜、欅、赤樫、等で当時の睦会の最高幹部、福山安太郎、佐久間喜三郎、前田治八郎、の三氏がいずれも材木商です。厳選を重ねた材木が使われました。 神社復興 大正十二年八月に老朽化した本殿及び社務所を、改築のため、取り毀した直後、九月一日の大震災のため、氏子の大部分と共に神輿も炎上しましたが、町の復興は意外に早く、昭和に入ると、お祭り気分も横溢、神社建築用の材木は幸いにも、焼失をまぬかれたので、昭和四年十二月七日地鎮祭、同六年、社殿、同十年、社務所の上棟式となり、工事も順調に進み、昭和十年十一月に竣工、総費用、二十七万六百三十九円五十二銭、その内、現在もある神輿庫の建築費は五千六百二円四十五銭となっています。 睦会員の数 会員が増加すると事務も繁雑になり、又、会の統制上や役員の選挙の問題など色々な理由があった様です。睦会員は大店の旦那もいましたが、大部分は江戸っ子気質の職人さんが多かったので、和を保つため、町同士の喧嘩が表沙汰になったりした場合、睦会員全員に、一杯飲ませるきめなども最初のうちはあったそうです。 渡御時間の厳守 昭和十五年が紀元二千六百年に当たるという事で、国を挙げて、奉祝行事が行われる事になり、神社の大祭もこの行事の一環として、参加する事になりました。睦会幹部は、ただ威勢よくお祭り騒ぎをやっているだけだはいけないという事で、これを機会に、渡御時間を厳重に守る事にしましたが、いざこれを実行するに当り、大変な苦労をしたと聞いています。 渡御が行われたのは、当時の明治節十一月三日で、とても寒い日だったのを覚えています。この年東京オリンピックが行われる事になっていましたが、支那事変のため中止になりました。 十八ヶ町奉賀会 昭和十二年に始まった支那事変が永びき、国の内外の情勢も緊迫して来たので、睦会会長前田治八郎氏は、会の体質改善を計る目的で、睦会を改組する事になり、昭和十六年十一月睦会は「十八ヶ町奉賀会」となりました。初代会長は紅林総太郎氏。十六、十七、十八年と三年間本社渡御は行われませんでした。 東京大空襲 昭和十九年三月九日、十日B29による大空襲で、東京下町はほとんど焼失、氏子も壊滅的打撃を受け、多くの方が焼死しました。神社も神輿庫と神楽殿を残して炎上してしまいました。八月十五日敗戦、十六日に宮司鏑木建男氏は神社焼失と、武運長久を祈って戦地に送り出した氏子出征軍人の戦死について、神職としての責任感から、神楽殿に昇り、古武士の作法通り、壮烈な割腹自刃されました。乗馬で神楽に随行し、氏子の人々に挨拶されていた宮司の笑顔は、今でも忘れる事が出来ません。 十八ヶ町奉賀会解散 昭和二十一年五月三十日。 鳥越神社連合敬神講結成と睦会再編 旧奉賀会員は敬神講の世話人になり、その中より旧睦会員は新生睦会を発足させました。敬神講は神社の運営、睦会は祭礼の執行を受け持ち、車の両輪の様に鳥越神社の発展拡大に努めて今日に至っています。 戦後第一回の本社神輿渡御 昭和二十三年六月十日敗戦後最初の本社渡御が行われました。戦災による焼土が道路の両側に土手の様に積まれて、相当広い道でないと渡御は出来ませんでした。渡御の先頭に、シャベルで焼土を取り除く係がいて道を作りながら進むわけです。鉄片や瓦、瀬戸ものの破片などで足を切るなど本当に大変でした。 睦会再建 祭礼終了後、戦前のような睦会を再建しようという事になり、昭和二十三年秋復活することになりました。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ↑は、東京新聞(2012年6月7日 神輿を守って100年 鳥越神社・睦会 9日から大祭境内に神器庫を新築)より。以下内容抜粋。 睦会会員は五百余名、絹のお召しに角帯、麻のたすき、白足袋姿。宮出し宮入り以外に拍子木役などもつとめ、「昔は『親子三代が氏子』『独身、時間の自由がきかないサラリーマンはだめ』など厳しい規制があった」と睦会筆頭総代の田口順一さん。今年は百年を記念して睦会旗と神器庫を新調した。会名「十八ケ町」は戦前の氏子町会区割り、今は二十三ケ町あり。
by bookbar5
| 2012-06-14 21:09
| 台東区稲荷町あたり
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