「おとしもの」四釜裕子
左の耳のすぐうえのあたりのひだひだ
ちっちゃいひとが鼓膜に向かって行進してくる
距離にしたらのべにしても数十センチ
その道を
どれだけの連隊でどれだけのおおごとか
まじですか、ほんとかね
(だって聞こえる)
ならそうでしょう
(って言ってどうする)
言われても困るわ
(だから言わない)
と言って黙られても
困るし関係なくなるし
(よく言うよ)
全くね、なんなんだ
(なんでもない)
そんな気もなく
そんなふりして
そうだとしても
そんな気になり
わかってはいない
わかりはしまいし
わかってどうする
選ばれて
唇に届けられるのは「五月蝿い」
もうとうに蠅のいない
過ぎた季節だった
足音は
ずいぶん遠くからやってきていたし
そしていまでもたどりつかない
五月蝿い(URUSAI)と言い続けるのに飽きて
米国防総省国防高等研究計画庁「HI・MEMS」計画係に
リンリンと電話をかける
蛇行飛行を特徴とするタイプのゴガツバエを一匹プリーズ。
芭蕉さんやヨーコさんのハエの国の者ですのでヨロシク
蛹のときに埋め込まれた四つの電極は
羽根を動かす二対の筋肉につながる
ライト・ターン、レフト・ターン、
代々木公園のドッグ・ランの柵にもたれて気軽な訓練を繰り返してまもなく
ちっちゃいひとが歩く道を蛇行して飛ぶようになり
羽音が
足音をかき消した
もう五月蝿くなくなったことが
わかった
コブシの木のしたのベンチでうたたねをして立ち上がったら
落とし物ですよと呼び止められた
振り返ると
足音を奪われたちっちゃいひとが耳の穴から落ちている
ありがとう、
だがこれは落とし物ではなくて
落ちた物なのだ
「gui」84 vol.30 August 2008 初出