うらわ美術館「日本・オブジェ1920-70年代 断章」展図録
*同展の《詩とオブジェ》 セクションには北園克衛、新国誠一、高橋昭八郎、伊藤元之、向井周太郎各氏の作品と資料が合わせて百点。構成を担当した金澤一志氏により「五作家それぞれの立場におけるヴィジュアル・ポエトリーの概要を美術的な文脈のなかで紹介」されている。
p88)
《詩とオブジェ》
住人たち、すこし固い部屋の
金澤一志(文芸批評)
超抜粋。
(北園克衛)の写真群は反モダニズムの作風として1960年代を必然としながら産み落とされたのであり、そこで可視化されているのは、時代を代表するイベントに居合わせながらも「大きな物語」に巻き込まれることをつねに嫌悪してきた北園克衛の孤高であり、反骨であったといえるだろう。
(北園克衛が主宰するグループVOUの機関誌)『VOU』は単なる同人誌にすぎないはずだが、清水俊彦という英才がグループにあって強力なブレーンとして北園克衛を支えていたために、詩という分野をはるかに踏み越えた特異な出版物となっていた。
出版物とは別に表現の場を持つことが印刷言語への一方的な依存を抑止して、VOUに特徴的な脱言語という指向に有効だと考えられたのである。
以後清水俊彦は盛岡をたびたび訪れ、「東北アヴァンギャルド」の頭脳中枢として依存される存在となる。こうして始まった高橋(昭八郎)、伊藤(元之)と清水の関係は次第に密接になり、やがてトリニタスとしてVOUのなかでひとつの水準を形成し、連携は北園克衛の死を乗り越えて、清水が没するつい近年まで継続されていた。
一字の漢字は、すでにコンクリート・ポエトリーなのかもしれない。
バウハウスやウルムの名前を出すと、数理的なプロセスはにわかに硬直の印象をもあらすが、向井(周太郎)の容器におさめられた内容物は古詩を慈しむような端正な情感に満たされていて、東洋的な性格をあわせもつ。
日本語によるコンクリートが実証可能だとするならば、向井周太郎が解答のもっとも近くにいることは疑いがない。科学を頼った新国誠一に対して向井の合理主義は情緒を了承する華やいだ前提があり、その意味では、むしろ北園克衛直下に在しても不都合はなかったと思う。