『昭和の子ども生活絵図鑑』、ながた はるみ 絵/奥成 達 文 金の星社。
1926年から1989年が昭和。太平洋戦争をはさんだこの年月をひとくくりにして「昭和」とはいえないと、著者のお二人が少年少女時代を過ごした昭和21年から40年ころの思い出を中心に、人、物、風景をできるだけ多く集めて描き下ろしたとあとがきにある。
わたし自身の子ども時代の暮らしには重ならないが見覚えのある物や似た遊びがいくつも出てくるし、ながめていると両親やおじおばに聞いてきたことや映画で繰り返し観たことが自分の中に「懐かしさ」となって溜まっていることに気づいて可笑しくなる。懐かしい〜って雰囲気でいうけどじっさいなにも知らないでしょ>自分。でも懐かしいと思うのだ。親戚が集まったときに語られる話が完成度があがってがっちりインプットされるというのとも違う。外で庭木が枯れている。
入学式、授業参観、道草、お祭り、縁側、茶の間、駅前、商店街。丹念に描かれたたくさんのシーンは、手前の瑞々しい白菜、値段、友達のおもちゃをうらやましそうにのぞく少年、買い物のおかあさんの横に三輪車のボク、そのうしろに首輪のない犬、チンドン屋、三輪車、商店街のホーロー看板、酒屋のおじさんの前掛け、商売ごとのそれらしい店の看板文字、煙草の種類、通りの奥の不良たち……。駄菓子屋の店頭シーンでは通りで竹馬する子から店の奥の茶の間、壁にかかった時計や賞状、障子があいて奥の庭木、その奥に広がる青空……(下の図版は
金の星社のサイトより)。どの見開きページもものすごい密度でつめこまれていながらある一瞬をカメラにおさめたごとく不自然さを感じさせないのはどういうことだろう。そしてどのシーンにも自分みたいな子がいるというのはどういうことだろう。懐かしさはひとのからだに蓄積する、というかそう感じることを懐かしいというのだとすれば限りなくひろがり続く。「昭和」という時代なんてないし私なんてひともいない。でも、あるね、いるね、こういうところに。