『出羽の国・寒河江の歴史 地名を歩く』
1992
著者:宇井啓
発行:寒河江市(庶務課広報公聴係)
p252) 寒河江というところ
寒河江は、古く関東寒川郷の移民が開拓した所。寒河江荘は藤原摂関家領の内。おもな産物は砂金と馬。
行基が開いたという慈恩寺は、聖武、鳥羽天皇の勅願の古寺。……
作神信仰で知られた葉山。岩手、宮城、福島など各地に分霊されて、多くの登拝者があり隆盛を極めた。
中世、鎌倉幕府の高官大江広元領となり、以後十八代四百年に亘って、寒河江城を中心に一族を当地分に分封して栄えた。
江戸時代の三百年間は、幕府直轄領。寒河江・柴橋には代官所が置かれた。……
地理学者古川古松軒は「寒河江は上方めきてよき町なり」と書き、井原西鶴は「好色一代男」に寒河江を登場させている。
明治初期に導入されたさくらんぼ。いまや全国一の栽培面積。……
p58) 谷沢というところ
……
光る山なみ、幾つかの沢。人々が住みついたのは、縄文中期の四千年も前だった。
谷沢七社は、いずれも小社で、移住民が勧請した氏神。中でも古志王神(こしおうじん)は、北を睨んで、風雪に耐えている。祭りは、旧十月十五日。耳の神様で、穴あき石を奉納する風習がある。
下谷沢には、珍しい鍛冶屋敷の伝承があった。寒河江に移った乗円寺ももとここにあったという。
寛文検地では、九百石余。田三十六町歩、畑七町八反余で田勝ちの村。
高松堰の揚水口があるムラ。寒河江川が一段低い所を流れているので、上谷沢・下谷沢・四釜(しかま)などの溜池で灌漑する。……
地名で四釜があったのか。