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ぼくの窓――ごく小さい詩論藤富保男
詩というと、すぐ悩める心を告白したり、喜びの感情を高らかに謳歌すると思っている人々が多い。時によっては、社会や政治を風刺的に書くという場合を想像する人々もあろうと思う。 ぼく個人はそういう立場で詩を感じたことはない。当然書こうとしたこともない。………… みんなありそうで、なさそうな事だ。本当に「ある」ことや、「あった」ことは新聞記者が書けばよい。 けれどもここに書いたような架空的仮設を十五分ぐらい噛みしめていると、冗談の種を口の中でころがしているようで、自分が温暖化して来るのである。詩なんて、案外こんなところに転がっているのである。