『響きあう 感動50年 音楽の殿堂 東京文化会館物語』(2011 東京新聞)
49p〜)
1954(昭和29)年2月8日、設立発起人総会はミュージック・センター建設用地について、上野公園内にあった竹の台高校跡地にすることを決定した。ここは東京都の教育庁が所管する土地であった。……上野は、東京の中でも、戦争による惨状を最後まで引きずっていた。……
……通称、葵部落は「葵の紋」に由来するようである。ここは、徳川菩提寺である東叡山寛永寺のお山であった上野の中でも一山を総括する学頭を代々出してきた名刹・凌雲院があった場所で、戦災者の一時避難場所から、すでに居住地区となっていたのである。
こつこつとためた私財を元に、1988年に「銀の雫文学賞」をNHKの後援で設立した作家・雫石とみ氏がこの居住区の暮らしを書いている。……
「……あおい部落が取り払いになると文化会館の起工式の施工。文化会館の竣工直前、私は、そこで、一カ月間働いた。現場事務所の雑役だった。民衆の殿堂文化会館、その偉容をみ上げるとき、あおい部落の貧しい生活がもうろうとうかんできて感慨無量だった」(『輝くわが最晩年ーー老人アパートの扉を開ければ』より)
56p〜)
加えて上野は、すぐ近くの本郷育ちの前川(國男)氏にも思い出深い土地であった。夜のしじまに上野公園から聞こえてくる動物の声に、さびしさを掻き立てられた少年時代があった。終戦直後の浮浪児があふれる上野の悲惨なありさまにもつらく悲しい思い出があり、記念文化会館の設計を引き受けたのが感慨無量だったと述べている。