台東区の稲荷町駅界隈の地図で住居表示を見ていると、西から上野、東から浅草に攻め込まれたはざまにちょっと浮いたかんじで「元浅草」という地名がある。
台東叢書第三集『下谷・浅草界隈町名由来考』(昭和42)などを見ると、もともとの「永住町」がわかれたり合わさったりさらに分割されてと複雑な変遷があるようで、その名を残すわけにはいかなかったにせよ「”元”浅草」というのはどういうわけだったのか。wikipediaには〈地名に「元」が付くのはその地名の発祥地もしくは各街道町の最も都側(上り)である場合が一般的とされているが、元浅草の場合は旧下谷区と浅草区の境目、浅草繁華街の西の初め(元)に由来〉とあるが納得しにくい。
台東叢書第三集『下谷・浅草界隈町名由来考』
印刷・発行 昭和42年
編集兼発行人 東京都台東区
印刷所 小竹印刷工場
印刷者 小竹栄玉
編纂担当 小森隆吉(あとがきより)
表紙と見返しの絵 作者不明
p230)永住町
……浅草永住町は15か寺門前町を合して起立とみなすべきかも知れない。……明治2年5月、本町が起立した。……士地は松平対馬守、小出丹宮の2邸である。寺地は東京府志料によると23か寺に及んだ。14か寺は門前町屋を有していた寺である。……
関東大震災後の市区改正で、本町西側に道路が造られた。現在清洲橋通りと呼ばれている道である。この道路は本町を南北に貫通した。町域が若干けずられるとともに、本町は東西に両断されるに至った。昭和18年(1943)、その西側は浅草区から下谷区へ編入替えされた。本町はここに下谷区永住町と浅草区永住町の2町にわけられたのである。昭和22年台東区の誕生によって、再び1町に統一。今次の住居表示制度実施で、6分された。……
……本区は昭和38年から住居表示に着手し、本年1月1日をもって区内全域を完了した。……住居表示は、国家百年の大計といわれる画期的事業である。私も区長として、これらの伝統を誇る町名が消えることは誠に心残りに思う。だが国家の大業の前にはこの犠牲もやむを得ないのではなかろうか。すでに消えた数々の歴史的町名は、あたかも巨大ダムの底に沈んだ僻村のように我が国の近代化への尊い礎石であると信じている。……
昭和42年3月 台東区長 上條貢(「序」より)