1970-71年、山形新聞に安達徹さんが連載したものを72年に一冊にまとめて刊行、そして2006年、「寒河江印刷で『桜桃花会』の奥平玲子さんとお会いした。そのときこの本の再版を勧められてとても困惑し」た著者が「快諾」にいたった経緯が、『雪に燃える花 詩人日塔貞子の生涯』のあとがきにある。
連載当時を私は知らないし、今なにかの機会で日塔貞子の詩を読むことがあっても読み過ごすだろう。2006年5月20日に再版されたこの本をくれたのは、寒河江に生まれ暮らす母だった。「ポケットにはいった血縁関係図を見てごらんなさい」、同封の手紙にそうあって、たしかにその血縁関係図には、地元の有名どころの名前が、一重、二重の線で結ばれていた。詩の文言への距離は遠いが、記されたいくつもの人や土地の名や言葉がなじみで引き戻される。こうして近づくものもあるだろう。
「春過ぎる」という作品の冒頭に「果樹の梢を埋めつくして/いっぱいの花撒きながら/あわただしくおし寄せてきた春よ」とある。春はひたすら待ち望み開かれた季節ではあったが、日に日にふくれあがるその様は確かにあわただしさもあった。雪解け水が勢いを増してゆく小川のほとりで、雫の氷に見とれるのが好きであったことを思い出す。作品は、こう繋がれてゆく。「雪は日ごとに/なめらかな輝きに泡立っては/果たせなかった約束のように消えてゆく」
貞子は大正9年、逸見誠一の長女として西里に生まれた。母セツは寒河江市八鍬、国井門三郎の長女。以降、上山、山形、天童と住まいを移しながら谷地高女を卒業し、姫路相生の叔父宅に寄り洋裁学校に通うが、半年後に左膝関節炎発病して山形に戻り入院。寒河江の大沼病院、大江町左沢の光風園を経て、西川町岩根沢で日塔聰と暮らす。昭和24年、死亡。32年、詩集『私の墓は』刊行。
・
日塔貞子『私の墓は』1957/四季・コギト・詩集ホームぺージ。