午後、「和算にまなぶ」の会へ。
遠藤寛子さんは、『算法少女』(安永4)との出会いからご著書
『算法少女』を著わすにいたる経緯のなかで、
三上義夫さんの論文を骨子として物語をいかに綴ってこられたかを話し、森本光生さんは「建部賢弘の数学」と題して建部がいかに円周率を求め、それを今どう検証するかを説明くださったがやっぱりわからず。建部の生きた時代はデカルトの座標平面の概念などなく、したがって数値解析とアルゴリズムを考えるふたつの力を縦横の糸として綴るようにして『綴術算経(てんじゅつさんけい)』を著わしたと言えるでしょう、という声に目覚める。冒頭での和算の定義の話のなかで、専門家の間では中国由来東アジア漢字圏の算数として考えるが自然とされるのは聞けばわかるが、一般辞書では「日本古来、あるいは独自の数学」、そのクッションにもならぬ無駄なギャップが埋まるともっと楽しいのになあ。
遊歴算家と言われるひとり、山口和は、文化14年からおよそ1年、先の旅で弟子となった筑波山近辺の人々をたよって東北をぐるりとまわった。旅中(どの旅中も)よく日記をつけたようで、佐藤健一さんらがその『道中日記』を現代語訳した本のなかに、2回目の旅行き、月山から羽黒、最上川を下って(?)新庄、そして「二十八日。同(村山)郡柴橋領谷沢村、茶屋加登屋佐兵衛方に泊まる。 二十九日。阿寺沢を通って大沼を参詣する。……」と続く。
谷沢は、わたしが暮らすころも「そろばん」が盛んな地区だった。数やそろばんのしくみが好きで、なにより先生が憧れで、習うのは楽しかった。でもいくらよみかきそろばんと言ったって、あの時代にそろばん塾ってなんだったのか。そんなこともとうに忘れ、そろばんで割算も置けなくなったが、山口和の『道中日記』が目の前にとても近しく、やってきます。
午後一番に、
佐藤健一さんが和算を概観するお話のなかで、口伝は秘伝にあらずと言った。口で伝えられないから秘伝ということにしてるんだと、軽やかに言った。
そう言われ続けて、今に伝わるものがたくさんある。たくさんあるが、繋ぐ人の、軽やかな叛逆の連鎖が、きっと今日のこの会のように、穏やかで、風通しのよい昼下がりに紡がれるのだと思った。
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東北大学和算ポータル
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和算の館(全国の算額がたくさん)