石見銀山、大森代官所跡前から仁摩駅までタクシーに。ふるさと案内人でカメラマンでもある運転手さんが楽しい。石見城があった竜嵓山(りゅうがんざん)、この大きな岩一面をノウゼンカズラが覆っているようだ。そしてそうか砂の博物館は仁摩にあったのだ、鳴き砂の琴ヶ浜も近かったのだが今回は行き過ぎて急行で一駅温泉津までちょうど夕陽が沈む時間。
駅からいったん湾に出て、U字カーブを描くように温泉街の通りへ。息をのむ。赤瓦の軒の低い家々が重力を味方につけたような静けさをもって夕暮れてゆく。2004年に温泉街としてはじめて国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されているが、このたびの石見銀山遺跡とその文化的景観による世界遺産登録域でもある。宿では夕飯の時間をできるだけ遅くしてもらって街を歩く。1300年前から湧出していた元湯と明治5年の浜田地震による薬師湯が共同浴場になっていて、地元のひとと観光客が行き交いひとなりににぎわう。歓楽的要素はない。元湯向かいの木造三階建ての宿が異様なたたずまい。
宿に戻り、湯にはいって魚魚、魚尽くしの夕餉。普段ならかぶりつきなのに食べられなくて夜食で食べさせてくださいと申し出ますが食べきれません。なにもかも新鮮すぎてこちらがもたないのです。さて仲居さんがおっしゃいます、数々の認定あっても客のいりは昔のまんま、町の風情も昔のまんま。なるほど異常増えても困るし逆でも困ろう。しかしよく見ると少しずつ少しずつ保存のための運動や改修が行われていて、なにかこう、重力を味方にした優雅があるのよ、暮らすひとも。さてもう疲れたし温かかったしおいしかったしで眠ってしまって、せめて目覚ましを6時にセットし、もうひとつ先の港を翌朝目指します。
町の共同浴場は5時半ころには開いていて、6時過ぎにはぼちぼちひとの往来があります。昨夜同じ宿には石見銀山から銀山街道を歩いてここまでやってきた団体が泊っていて、ああいうひとたちはきっと朝一番に起きて湯に行くんだろうねと言っていたらそのとおりでした。港方面に向かいます。町一番の古い建物である内藤家は廻船問屋・梅田家のもので、1747年の温泉津大火のあとに建てられたとのこと、白壁といぶし瓦が美しい。今も普通にここで暮らしているそうです。「チョンマゲからナウな髪型まで」の床屋さんも。小高いところに龍御前神社。上宮までのぼって見上げるとなるほど龍の頭のような岩。温泉津の街並が一望できて、さっき見た内藤家も通りからは見えなかった奥行きがうかがえます。
海沿いを歩くと白くてきめの細かい砂が積まれている。硅砂ですか。近くの三子山鉱山のものか。道なりに歩き、小さなトンネルをくぐる。この上が、鵜の丸城があったところだな。
抜けて、沖泊。銀を運び出し、銀山への様々な物資を運び込んだ港。いわゆる銀山街道の終着地点だ。温泉津の街並にさらに重力をかけたような、あらゆる音が地に吸い込まれているような静けさと、海の色のなんという美しさ。港から海を見ると右に櫛山城、左に鵜の丸城、小さな小さなこの港が、どれだけにぎわったというのだろう。
神屋寿禎は銀の積み出しに、中世から栄えていた温泉津を使わず、仁摩にある鞆ヶ浦の港を使ったようだ。沖泊は毛利氏が石見を得た1562年以降に銀山への道とともに整備され、中国山地を越えて尾道から大坂へと運ばれる江戸時代はじめまでにぎわったようだ。江戸時代も、銀山への物資の水揚げは続いたそうです。
さて振り返ると右に1526年建立の恵比寿神社。小さな小さな集落を静かに歩く。ほとんどが空き家のようだが、かすかにテレビの音が漏れ聞こえてくる。車が一台、出て行った。集落に手を合わせて、わたしたちも出る。トンネルを逆にくぐって、山のほうへ。中学生がおはようございますと行き過ぎる。おはようおはよう。そうだもう宿に戻らないと。朝日が眩しい。龍澤寺、恵珖寺、西楽寺を参って朝ご飯。お世話になりました。大浜製菓で才市まんじゅうと下駄せんべい。駅前に戻るとおばさんが、一軒一軒声をかけて朝刊を配っている。浅原才市の家もある。元湯前に角を生やした銅像のあったひとだな。船大工で下駄なども作りながら念仏を唱えてはかんな屑にひらがなで言葉を書き留め、昭和の妙好人として地元でも大切にされているようだ。
名残り惜しいが駅へ戻り、出雲へ向かいます。